人気ブログランキング | 話題のタグを見る

庶民派知事で何があっても心配いらない広島を ヒロシマ庶民革命


by hiroseto2004

社主・さとうしゅういちと広島瀬戸内新聞(1)

社主・さとうしゅういちと広島瀬戸内新聞


 わたくし、さとうしゅういちは、1975年11月12日、広島県福山市に生まれました。両親ともに、生後すぐに東京都に移住し、文京区、杉並区、世田谷区などで、大学卒業まで過ごしました。

「広島市」と「福山市」は同じ広島県内といっても、100km離れています。ですから、常識的に考えれば、福山市に生後すぐの期間しかいなかったわたしが、被爆地である「広島市」を軸とした新聞を発行するなんてことは、考えられないことでした。





東京で被爆者の先生に担任をしていただいて





そんなわたしが「ヒロシマ」に興味をもつきっかけとなったのは、小学校3年から4年(1984・85年度)の時に担任をしていただいたS先生との出会いです。



S先生は、安芸郡府中町ご出身。野球で有名なK高校をご卒業後、広島大学を卒業し、東京で教鞭をとられるという異色の経歴の持ち主でした。



S先生はご自身が小学校3年生の時に学校で被爆。そのときの生々しい体験談を、生徒たちにしてくださいました。同じ年齢のときの体験を話してくださった先生のお話はわたしの心を捉えました。「二度と先生や先生の周りの方のような目に遭う方が出てはならない。」そう思った私は、「将来、国会議員として、核兵器も戦争もない世界を作ろう。」と決意したのでした。



 



「黒い雨」と「千羽鶴大作戦」



 高校時代には、同じ福山市生まれの井伏鱒二の「黒い雨」を読み、涙を流しました。特に、主人公の若い女性(高丸矢須子)が、相談するところもなく、原爆症発症を隠して、悪化していくというところに心を痛めました。



このことこそ、のちに、わたくし・さとうしゅういち、そして広島瀬戸内新聞が、後述する男女共同参画の活動に参加しようという心理を持つにいたった背景の一つではないでしょうか?



 また、わたくし、さとうしゅういちは、定期的に広島市安佐南区古市橋駅前、西区横川駅前で街頭演説を行っています。その理由の一つは、古市橋駅が黒い雨の主人公・閑間重松が被爆後にいのちからがら、矢須子ともども逃げてきた場所であり、横川駅は重松が被爆した場所だからです。



 大学時代には、インターネットで広島市安佐南区の平和教育に携わる小学校の先生と交流。日本全国はもちろん、世界中から千羽鶴を集め、平和公園にささげるという「全国千羽鶴大作戦」にも参加させていただきました。



 平和を願う子どもたちの純粋な気持ちに打たれ、「ヒロシマの子どもたちの心を無にしない政治を」と決意を新たにしました。





大学時代に「広島瀬戸内新聞発刊」



 「全国千羽鶴大作戦」に参加させていただいていた大学時代の1996年、わたくし・さとうしゅういちは、ネットで「広島瀬戸内新聞」を発刊しました。広島に関する情報や、平和、環境、人権に関する情報を発信しました。



 このころ、わたくし・さとうしゅういちは、平岡敬・広島市長の「希望のヒロシマ」(岩波新書)を愛読していました。



平岡市長は、広島の平和の訴えが必ずしも国際政治の力学に大きな影響を与えなかったととらえ、「世界各地に起こっている悲惨な現実に、有効に対応できない<ヒロ
シマの思想>とはいったい何なのか。広島の平和思想が普遍性を獲得し、力を持つためには、もっと鍛えられなければならないのではないか」とおっしゃいました。



 自分も、「単に核兵器廃絶だけを訴えればよいのではない。環境破壊のない、あるいは貧困・差別のない社会をつくる先頭に自分もたたねばならない。」と大いに奮い立ったものでした。





Tracked from 広島瀬戸内新聞ニュース(.. at 2014-09-18 11:42
タイトル : 社主・さとうしゅういちと広島瀬戸内新聞(2)
社主・さとうしゅういちと広島瀬戸内新聞(1) 念願の「聖地」ヒロシマへ!  2000年、わたくし・さとうしゅういちは、広島県庁に入庁。大きな理由の一つは、被爆地ヒロシマで平和運動などの活動もそれなりに両立できるのはこの仕事だ、という思いがあったからです。  東京在住時代のわたくしにとって、広島とは、カープの本拠地でもあり、まさに「聖地」でした。 平和・環境について発信  広島では、2000年と翌年の8月6日、世界中から平和メッセージを集めて灯篭に張り付け流すという「インターネットとう...... more
by hiroseto2004 | 2014-09-16 22:52 | 主幹・さとうしゅういちの部屋 | Trackback(1)