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庶民派知事で何があっても心配いらない広島を ヒロシマ庶民革命


by hiroseto2004

「リスボン大震災」契機に「合理性」身につけた西欧と「3.11」後、迷走する日本

1755年11月1日、キリスト教の祭日でした。この日、ポルトガルの沖合を震源に東日本大震災と同規模のM9.0の大地震が発生し、首都リスボンでは大半の建物が倒壊しました。(震度6強~7と推測される。)

残った建物も、火災や津波で壊滅してしまいました。
大津波はスペインやモロッコはもちろん、イギリスやフランスなども襲いました。
キリスト教の聖なる日に起きたこの惨劇。








神様を絶対的な物と信じ込んでいた西洋人に大きな衝撃を与えました。
はっきり申し上げてしまうと、昔の西洋人=キリスト教徒は、日本人以上に、迷信にとらわれていた面もあったのです。

しかし、この大震災を契機に、「合理性に基づき、物事を考える」気風が急速に強まったのです。

「近代」は「1755年11月1日リスボン大震災から始まった」とさえ言えると思います。

時は流れて2011年3月11日。
東日本大震災は今なお、現在進行形です。
だが、日本は教訓を活かすどころか、むしろ、迷走しているようにさえ思えるのです。

まず、自民党体制側。この大震災などを例にして、「緊急事態条項」を憲法に盛り込もう、などと叫んでいます。

しかし、冷静に考えると、緊急時には、災害現場から遠い中央政府の権限よりも、現場の地方政府に権限・財源を渡し、地方政府が復旧や生活支援に心置きなく取り組めるようにすることのほうが、効果はあるのです。

災害に便乗して、人権や民主主義を制限しようとする安倍総理らの魂胆。まさに、近代からの後退です。

また、大震災直後の統一地方選挙や衆院選では、「危機の時には古手の方が頼りがいがある」とばかりに、自民党のベテランへの揺り戻し現象も見られました。

実際には、原発をつくりまくったのは自民党政権だったにもかかわらずです。

確かに、原発事故は、「近代」が生んだ産物であることは間違いありません。
しかし、そうであるならば、日本がすべきことは「近代」の「合理性の否定」ではなく、フクシマの惨状を前提条件に加えた「新たな合理性の構築」であるべきでした。

しかし、そうした議論ではなく、とにかく、エライ人が独裁的にやらないと駄目なんだ、自民党の古手じゃなきゃ駄目なんだ的な議論がまかり通った。

ここに日本の病理があります。



他方、反体制側も問題を露呈しました。

脱原発、脱被曝。全く正しいテーゼだと思います。

だが、一方で、原発への反発の勢い余って、近代科学や合理性全般を否定する流れが、反自民側でも強まった感があります。近代医療全般を否定する流れ、経済成長そのものを頭ごなしに否定するかのごとき言説が、(既成政党を除く)反自民側でも、あふれかえった感がありました。

さらに、現代日本においては、貧困・格差の問題が深刻です。しかし、いわゆる左翼・リベラルが脱原発に資源を集中しすぎたために、2011年3月11日から2013年参院選の頃にかけては、貧困や格差の問題があまり取り上げられなくなった嫌いがあります。そのために「アベノミクス」を掲げ、庶民にも恩恵が及ぶような雰囲気を醸し出した安倍総理にやられてしまった感はあります。

冷戦崩壊後、大流行したポストモダン思想。これが村社会と結びつき、大きな害悪を日本の左派・リベラルに与えたと痛感しています。すなわち、「格差是正をいうことはダサい」かのような雰囲気です。特に、1990年代、左翼・リベラルの論客は格差是正から逃亡し、情報公開とか環境、ジェンダー、盗聴法反対、国旗国歌反対など「ばかり」に取り組むようになった感があります。もちろん、情報公開なりジェンダーなりの取り組みも大事です。大事ですが、経済格差是正の観点が弱い市民運動には限界があるのは事実です。結局の所、日本共産党と新社会党以外は、橋本龍太郎内閣による新自由主義に賛成するという状況が1990年代後半に生まれていたのです。そうしたことを背景に、2010年代後半に入った今でも、左派・リベラルでも貧困・格差への取り組みが弱い状況にあるのです。

さらに、リベラルの一部によるいわゆる「脱成長」論が、新自由主義者にうまく利用されてしまった面もあります。そもそも、日本においては、供給サイドでいえばエネルギー効率の改善、需要サイドでいえば格差の是正などを通じ、経済の伸びしろはあると思います。

そして、その伸びしろまで否定するような雰囲気を醸し出してしまった左派・リベラルは、庶民の支持を得られず安倍総理をアシストしてしまったのです。

さらには、脱原発の勢い余って、反米・反ユダヤへ流れ、さらには、エルドアンやプーチン、トランプのような独裁的な指導者を持ち上げるような言説もはびこるようになってしまった。

近代の批判すべき部分は批判すべきだ。しかし、左派・リベラルは、その上で「新たな合理性」の構築をしていくべきではなかったか。

そのように思うのですが、いかがでしょうか?




by hiroseto2004 | 2016-08-24 20:29 | 思想・哲学 | Trackback