昨日のヒロシマ・アキバ塾 (第三回) 河野美代子先生の感想
2012年 07月 27日
第三回ヒロシマ・アキバ塾
http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-9773.html
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そして、夜はヒロシマ・アキバ塾でした。
毎回、回を追うごとに参加する方が増え、たぶんこうなるだろうと予測したスタッフの一人が会場を変更してもらっていました。403号室から一番広い401号室へ。それでも、カツカツ一杯でした。ありがたいことです。
今回のテーマは「こども」。
被爆当時、小学校の中学年からは集団疎開をしていました。その数23500人。だから子どもは被爆から逃れたけれど、両親が広島市に残っていて爆死。孤児となった子どもたちが2000人から6500人とも言われています。このはっきりしない数字が原爆で根こそぎ破壊してしまったためであることを示してもいます。
その子供たちの戦後は本当に大変でした。知人や親せきの人に育ててもらった人、施設で育った人、それから当時孤児院と言われていた養護施設で育った人。中には、自殺した子どもも飢えで亡くなった子どもも。子どもたち自身の力と、大人たち社会全体の支えの中で立派に成長した原爆孤児たちも。これは、私は「はだしのゲン」でしっかりと教えられています。
その子どもたちを支えた人たちの中に「谷本清牧師」がいます。谷本牧師は、世界では被爆孤児の養子縁組、精神養子縁組、やけどとケロイドで顔を失った女性たちのアメリカでの手術などに奔走する一方、アメリカ全土で被爆の実相を話して回りました。
これにより、世界中の人たちが原爆の被害を知ることになったのですが、日本ではプレスコードのために知られるのはもっと後になります。日本では、売名だのと悪く言う人もいましたが、もっと谷本清牧師がした業績については検証されなければならないと秋葉さんは述べました。なお、私は一生懸命メモをとりましたが、取りきれない部分はスライドの写真を撮らせて戴きました。写真をクリックして戴けば大きくなって読みやすくなります。
さらに戦後、被爆教師の会、石田明先生や空辰夫先生などが中心となって作った全国組織、その果たした役割。聴いていて、石田明先生のことをいろいろと思い出して、胸が詰まる思いをしました。
そして、戦後の子どもたちが取り組んだ平和への活動。これが最初に述べられたのですが、佐々木禎子さんについて。1955年10月25日、12歳で白血病のために亡くなった禎子さんの折り鶴の話。具体的にたとえば千羽折れば病気が治ると折り続けましたが、それも紙をち得るのがなかなか大変で、病院の中で紙を探したと。薬包紙で折ったり、だんだんと小さくなって行って、終わりのころは米粒ほどの鶴も折っていたと。それが紙を節約するためだったのか、と初めて認識しました。
その禎子さんの死を受けて、当時の幟町中学の一年生が中心となって「原爆の子の像」の設立を呼びかけました。当時、ちょうど全国校長会が開かれたとき、そこで2000枚のチラシを配ったことがきっかけで、その運動は全国に広がりました。
ごめんなさい。時間が無くなりました。また続きを書きます。
by hiroseto2004
| 2012-07-27 11:10
| 広島市政(広島市議会)
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