安倍総理による文系潰しを招いた「自爆テロ」としての腰抜けポストモダン
2016年 05月 09日
□安倍総理による文系潰しを招いた「自爆テロ」としての腰抜けポストモダン
安倍総理が国立大学の文系学部をつぶそうとしていることについては、わたし自身、もちろん大反対です。
権力や資本に阿らず、人間社会を分析し、研究すること、そして提言していくことは大きな意義があります。そして、批判精神を養った学生を送り出すことは大事です。
単純に、表面的に経済的な損得だけで学問の価値を図るのは大きな間違いです。
しかし、です。
文系の大学教授ら自身がこの30年近く、「自爆テロ」をやらかしていることも見逃せません。
それが「腰抜けポストモダン」です。
確かに、モダンの問題点である環境破壊なりジェンダー差別なりの問題について、ポストモダンの良質な部分の学者なり議員なりの功績は大としなければならない。(とはいえ、実を言うと、モダンのチャンピオンたる既成政党=共産党、社会党=も環境問題ではそれなりの功績があったことは忘れてはならない。)
だが、いつの間にか、ポストモダンは、何でもかんでも相対化、脱構築してしまった。
大手企業や官僚機構と、一般労働者、一般市民がいかにも対等であるかのような幻想すら与えてしまった。
そして、権力を批判したり、文句をつけるのがダサいかのような雰囲気を醸し出してしまった。
他方、2000年代に入った頃から、攻撃しやすい対象に対しては、これまで以上に過激に攻撃する傾向も加速しました。もちろん、攻撃された対象も腐りまくっているのは事実だが、「それだけ」で日本や世界が良くなるような話ではないのです。
ですが、ウケてしまうのです。このタイプのインテリとしては、橋下徹さんが代表的な存在でしょう。
こうした流れの果てに安倍総理が再登板し、国立大学の文系をつぶそうとしているわけです。
安倍批判は当然ですが、「腰抜けポストモダン」の総括も必要ではないでしょうか?
by hiroseto2004
| 2016-05-09 21:29
| 思想・哲学
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