今、「脱経済成長主義」に敢えて乗らない訳
2016年 07月 03日
【今、「脱経済成長主義」に敢えて乗らない訳】
わたしは、今では「脱経済成長」には敢えて乗らないことにしています。
要は、脱経済成長だって、そもそもは、地球環境を守ること、そして個人の尊厳を守ることを両立させるための手段に過ぎない。
しかし、ではその手段として「現時点で日本という環境で叫ぶことが適切か?」といえばそれはNOでしょう。
第一に、今はもはや戦時下です。戦争は最大の環境破壊です。それが現在進行形で起きている中で、戦争をこれ以上続けさせないことが大事です。そのためには、野党議席を最大化するとともに、院外の市民運動を活性化させ、クルマの両輪で、総理に圧力をかけ、当面は海外派兵をあきらめさせること(その後、安保法廃止)が至上命題です。
第二に、現時点のニッポンでは、「脱経済成長」が大日本帝国における「ほしがりません、勝つまでは」に相当するものになりかねないからです。
実際、小泉総理が、野党に貧困問題について国会で追及された際、「アフリカよりは日本の方がマシなのだから」という趣旨の答弁をされています。「脱経済成長」は「ポストモダンの村社会」日本においては、「小泉的自己責任論・新自由主義」と親和性を高く持ってしまうのです。
第三に、「それでは野党が安倍総理に勝てない」からです。総理に勝てないと言うことはすなわち、総理が勝つこと。そして海外派兵や原発をガンガン進めることにつながるからです。そのことは、直視しなければならないのです。「まだ、暮らしを良くしてくれそうな安倍のほうがいい」と有権者に思われたら、日本の民主主義自体がおしまいになりかねないのです。
だいたい、エネルギーコストの効率化の余地はまだまだあります。
また、日本産業の付加価値は、欧州と比べても上げる余地はあります。
やり方さえ間違えなければ「一人あたりGDP」の「(環境負荷を増やさない形での)のびしろ」はあると見て良いのです。
もちろん、護憲とか脱原発、脱ヒバクなどの課題で脱経済成長主義のみなさんとも共闘はしていきます。
しかし、わたしとしては「申し訳ないが、その立場は取らないよ」というわけです。「だけど、一致点では大いにご一緒しましょう」というわけです。
by hiroseto2004
| 2016-07-03 20:12
| 思想・哲学
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