日本人が「国内の格差是正(階級闘争)」から逃げまくってきたツケが回っている
2016年 09月 18日
日本人が「国内の格差是正(階級闘争)」から逃げまくってきたツケが回っている
日本の教育費の公的支出比率がブービー賞?!
日本、33カ国中32位=教育への公的支出割合-OECD
外国から受け入れた介護士や看護師が日本を去っている?!
「外国人看護師・介護士、難しい定着「もう疲れ果てた」」【他社報道】
当たり前じゃないの。
ハッキリ言おう。
日本人(の左翼・リベラルさえも)は、1990年代以降のいわゆるポストモダン期、特に、国内の格差是正(時代がかった言葉で言えば「階級闘争」)から逃げまくってきた。
政党で言えば、日本共産党と新社会党以外が新自由主義的な法案に賛成するという国会状況さえあった。
雑誌で言えば、「社会主義」と「発言者」以外、新自由主義肯定ではないかと思えるくらいだった。
世界的に言えば、1999年のWTOの会議に対するシアトルでの抗議行動が、庶民側の「反撃」ののろしだった。
だが、日本はむしろ、自民党内の政権交代という形を取って、ポストモダニズムのチャンピオン・小泉純一郎さんを総理に押し上げてしまった。
いまでこそ、都知事選挙の革新統一候補となった鳥越俊太郎さんでさえも、あのころは小泉さんを持ち上げまくっていた。
ポストモダニズムが悪いところばかりだったかといえばそうではないかもしれない。ポストモダニズムで情報公開やジェンダー、多様性の尊重では一定の前進はあったとは思う。村社会ニッポンを「個の確立」とやらで、打破してくれるという期待を都市部のインテリを中心にポストモダニズムは集めた面はある。
しかし、村社会ニッポンの中で、ちょっと「標準」から外れた生き方をした人が一斉に叩かれると、ポストモダニストたちは、腰砕けになってしまったのはないのか?場合によっては何食わぬ顔して叩く側にまわっていたかもしれない。
結局、ポストモダニズムのインテリは格差是正から逃げまくったのではないか。
原発反対、沖縄基地反対。そんな話なら、一緒になって反対だということもできる人もいるかもしれない。
しかし、身近な貧困や格差については沈黙、という人も少なくなったのではないか。
一時期、貧困問題が注目されたことはあった。しかし、3.11後の喧噪の中で、左翼内部でも反原発ばかりが注目された傾向はなかったか?
ポストモダンのインテリたちは、遠くのことに「反対」できても、身近な日本国内(というか自分たちの周りの)の貧困や格差に反対できなかった、と絶望せざるを得ない。
気がつけば、自分たちの子どもたちの教育や、自分たちの親、そしてまもなく訪れる自分自身の介護が危うくなっているではないか?!
いまこそ、もう一度、身近な貧困、格差についてもっと発言すべきではないのか?