「近代の超克」75周年と「安倍昭恵」・・・・「近代否定の勢い余って前近代へ逆噴射」
2017年 06月 27日
第二次世界大戦中の1942年と今の日本は実はそっくりだと思います。
安倍晋三は、まさに、75年遅れの東條英機でしょう。
そして、当時の対米英戦争の代わりに現在の対テロ戦争、と言う案配でしょう。
さらに、哲学的に言えば、「近代否定の勢い余って前近代へ逆噴射」というのがそっくりではないかと思うのです。
それは当時は「近代の超克」であり、現在は「安倍昭恵」ではないかと思うのです。
1942年7月、小林秀雄ら京都学派の哲学者13人が集まり、「近代の超克」と銘打ったシンポジウムを行いました。
米英に日本が喧嘩をふっかけたという時代背景の中で、西欧近代を批判的に検討するという趣旨であって、軍国主義を直接賛美するものではありません。
とはいえ、やはり、「近代を乗り越えた!」という勘違いは結構当時、蔓延していたのではないか?
だが、その結果は、なんと言うことはない。破滅への道だったということです。
現代日本の安倍晋三政権やその支持者の考え方も「近代否定の勢い余って前近代への逆噴射」でしょう。
具体的には、近代の合理性や、近代立憲主義の否定です。
さらに、反体制的な人たちの間にも「反原発」の勢い余って、近代合理性そのものを否定してしまう動きもありました。
そうした人たちが脱原発・家庭内野党を自称した安倍昭恵さんに回収されていき、安倍政権への逆風を弱める役目を果たしたのも事実でしょう。
もちろん、米英仏などの帝国主義国が途上国を空爆しまくっているのも事実ですし、近代が原発を生んだのも事実です。
しかし、だからといって、近代合理性や近代立憲主義そのものまで勢い余って否定しては、それは「近代の超克」でも「ポストモダン」でもありません。
「前近代への逆噴射」です。
そして、安倍昭恵さんは言ってみれば
「原発もないけど、近代立憲主義もなかった」
そんな「前近代への逆噴射」を体現するような人であり、現在の思想・哲学的な状況の象徴ではないかと思います。
今、追求すべきは、
「前近代への逆噴射」
ではなく、たとえ地味であっても
「時代状況に合わせ、立憲主義を踏まえた合理性」
に基づいた問題解決ではないでしょうか?
「俺たちは近代(西欧)を乗り越えた!」
そんな傲慢さの暴走が破滅を生む。
そのことは繰り返しておかねばなりません。