フランス核実験への反対運動、核兵器禁止条約の背景に
2017年 07月 11日
核兵器禁止条約に至る道 ――世界法廷プロジェクト② 仏核実験――
核兵器禁止条約に至る道
――世界法廷プロジェクト② 仏核実験――
以下、『数学教室』連載”The Better Angels 2015年3月号から転載
《フランスの核実験》
世界法廷プロジェクトの前段階として、フランスの南太平洋における核実験に対する大きな反対運動がおこり、それが成功したことを特筆したいと思います。
そもそもフランスは、1963年の部分核実験禁止条約は批准せずに大気中の核実験を続け、サハラ砂漠での実験に対する反対が大きくなると、ヨーロッパから離れた南太平洋に実験場を移しました。1966年から1974年の間に、ムルロア環礁、ファンガタウファ環礁で44回の大気圏核実験を行い、それに反対する多くの市民不安と怒りが大圧力を作り出し、反対運動は1972年から急速に広がりました。一つのピークは、フランスの核実験に抗議する「平和船団」にフランスの海軍の船の衝突でした。このことが報道されると、国際的な世論にも一気に火が点いたのです。
市民の声に応えてニュージーランド政府はフランスを国際司法裁判所に提訴して、フランスに核実験を止めさせることに成功しました。もっとも当初、ニュージーランド外務省はICJへの提訴には反対だったのですが、世界的世論の後押し、特に、放射能の害に対して母親たちをはじめとする女性の声が大きな圧力となり、1973年5月と6月に、ニュージーランドとオーストラリア政府がICJに提訴、6月にICJは、8対6で、ニュージーランドとオーストラリアの立場を認める仲裁的意見を発表し、フランスは大気中核実験の中止を決定、1974年12月、ICJは訴訟の継続を打ち切る、という一連の動きがあったのです。
しかし、それからもフランスは核実験を続けます。1985年には、フランスの諜報機関が抗議船を爆破し、死者まで出す騒ぎになっています。それでも、大気中核実験を続け、ICJの勧告的意見が出た後に包括的核実験禁止条約に調印するといった形で、一応終止符は打ったものの、フランスの拘りは並大抵のものではありませんでした。
穿った見方になりますが、ICJの勧告的意見が実現した裏には、フランスが「悪玉」として、完膚なきまでにその役割を果した点も一つのポイントではあった、と歴史的な分析をしておくこともどこかで役立つかもしれません。「勧善懲悪」の映画のように、核実験については、誰から見ても――とはいってもフランス政府はそう考えていなかったのでしょうから、そこが怖いのですが――理不尽な態度を取り続け、どちらの「味方」になるべきかは誰にでも明らかだったからです。
フランスに対して効果のあったICJへの提訴と、その背後に控えていた世論を合わせて考えた時に、「勧告的意見」という制度を使おうというアイデアが浮かんだとしても不思議ではありません。
こうして核実験は中止されましたが、その被害者が今でも苦しんでいることは、昨年何回かにわたって報告した通りです。昨年はフランスの核実験が開始されてから50年の節目の年でした。核実験による被害者を救済するために立ち上がった若い世代そして宗教家たちを中心にタヒチのパペーテで集会が開かれました。その背景と運動の今後について、下記の記事を再度お読み頂ければ幸いです。
パペーテでの集会
次回は、フランスの核実験を中止させた市民運動がさらに大きな「世界法廷プロジェクト」に取り組み様子を復習します。