「天皇即位」のあり方は「文武天皇」からである【古代史】
2019年 10月 22日
「天皇即位」のあり方は「文武天皇」からである【古代史】
「天皇即位」をめぐる一連の儀式のあり方は、「大宝律令」が701年に施行されてから固まったものであろう。
すなわち、「日本国初代」の「文武天皇」からである。
そもそも、「神武天皇」が「天皇」に即位したという事実はないし、「神武天皇」とされる人物にもそのつもりは
なかったろう。「神武天皇」とは、おそらく、2世紀ごろ、北部九州から近畿へ殴り込みをかけた倭国王族の一人を
モデルとしたのだろう。
「即位の儀」もなにもあったものではないし、その頃の日本を代表する政権は九州北部にあったろう。その証拠に、
大分県日田市から出土した鏡が曹操の墓から出土した鏡と酷似していた。
696年8月12日(九州年号大化2年7月10日)、軽皇子のちの文武天皇と藤原不比等は、多治比嶋右大臣、阿倍
朝臣御主人、大伴宿禰御行、石上麻呂らと共謀し、藤原京大極殿において前王朝の天子・高市帝を暗殺。政権を奪取した。
そのなまなましい様子を日本書紀では、「645年に、中大兄皇子と藤原鎌足が、蘇我入鹿を暗殺した事件」にすり替えた。
しばらくは、九州において、高市帝シンパによる抵抗=ハヤトの乱が続いたため、その鎮圧のメドがついた701年に
日本国を正式に発足させたのだ。
だが、その日本国の皇統も孝謙天皇で絶えてしまう。その後は、百済系京都桓武王朝となり、現在にいたっている。
「現皇室」という意味では歴史は、桓武天皇から、1200年あまり、ということになる。それでも、世界で最も古い
ことには変わりはない。
ただ、歴史を高市帝以前の「倭国」までさかのぼるなら「束帯」ではなく「埴輪」にみられるような格好こそ
がふさわしいだろう。