なぜ、「日本建国の父」藤原不比等は天皇にならなかったのか?ーー前王朝・高市帝の暗殺事件の引責?
2020年 03月 28日
なぜ、「日本建国の父」藤原不比等は天皇にならなかったのか?ーー前王朝・高市帝の暗殺事件の引責?
以下は俺の個人的歴史観によるもので、所属団体や支持政党とは関係ありません。
今年は「日本国建国の父」といえる藤原不比等没後1300年だ。
不比等という名前は、まともに考えたらすごい名前だ。
「俺と比べられるやつはいない」という傲慢な名前であり、天皇に等しい、いや、天皇を超える権力があったとみて間違いない。
問題はなぜ、不比等が天皇にならなかったのか?
九州王朝・高市帝が暗殺された直後の700年前後は当時の有力豪族のどれかから天皇を出しておかしくない情勢だったはずだ。
ひとつは、トップにたつことで、暗殺されるのをふせぐため。それよりは、史実のように、外祖父で君臨したかったから。
これは模範解答だろうが、たりない。
やはり、藤原不比等は、高市帝を暗殺した主犯だったのだろう。そして、暗殺において、宮殿を血で汚したのだ。
九州王朝・高市帝は、694年に首都を難波から藤原京に移した。695年には「大化」と改元。
高市帝は、武にすぐれた帝だった。壬申の乱では自ら指揮をとり、大友帝を打倒した。また、おそらく、草壁皇子らも攻め滅ぼした。そして、唐に倣った帝による専制をめざした。おそらく、高市帝のときに文書を整備した。いまのサウジアラビア国王が首相を兼ねているように、自ら太政大臣も兼ねて、権力を集中させようとした(大化改新)。
不安を抱いたのが、多治比嶋右大臣、阿倍御主人大納言、大伴御行中納言、石上麻呂中納言だろう。彼らが当時36歳で十分に即位する権威もあったくらもちのみこ=不比等を先頭に大化2年=696年、高市帝を暗殺したのだ。
その生々しい有様は「日本書紀」においては、中大兄皇子による蘇我入鹿暗殺事件として描かれたのだろう。中大兄皇子+鎌足=藤原不比等ということだろう。「藤原不比等による三種の神器強盗殺人事件」だ。
ただ、宮殿を血で汚した責任をとり、不比等は即位しなかった。日本書紀は697年の軽皇子の文武天皇の即位を伝えているが、実際にはちがったろう。701年ではないのか?
高市帝暗殺後、九州で帝のシンパが暴れたはずだ(隼人の乱)。ようやく701年に鎮圧のめどがつき、元号を大宝とし、文武天皇が即位したが、生意気になったため、暗殺されたとみられる。このことは、日本書紀では「軽皇子の孝徳天皇憤死事件」ということにされているのだろう。
そして、奈良・元明王朝がはじまるのだ。
by hiroseto2004
| 2020-03-28 16:15
| 思想・哲学
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