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エコでフェアでピースな世界をヒロシマから国政へ!成長戦略から成熟戦略。誰もが置きざりにされない社会を。核兵器も原発もない世界を。役人からヘルパーへ。庶民増税より格差是正。ヒロシマの心活かす市民発・政界再編。


by hiroseto2004
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やはり「中大兄皇子の天智天皇による大化の改新は存在しなかった」と考えるのが自然

やはり「中大兄皇子の天智天皇による大化の改新は存在しなかった」と考えるのが自然

関裕二の近著「大化の改新」では、645年に蘇我入鹿は百済王・余豊璋=藤原鎌足の手下に暗殺されたものの、鎌足と中大兄皇子は政権をとれず、孝徳帝のもとで、入鹿の政策は続けられたという。蘇我王朝の本流は大海人皇子であったという。なら、しっくりくる。

俺は「天智天皇」自体が存在があやしすぎるとおもう。「天智」というのは、殷の暴君とされた紐王が愛した玉のことだ。だいたい、蘇我倉山田石川麻呂(孝徳帝のことだと俺はかんがえているが)の首を塩漬けとか、蛮行が目に余る。

日本書紀は藤原不比等による藤原のための歴史書だから、天智も天武もディスり、相対的に藤原をもちあげるような仕掛けがあったとおもう。

天智天皇については、白村江の敗戦責任をおしつけるためにフレームアップされたとおもう。だいたい、日本の外交政策が661年を契機に親唐から親百済に急変しているのがおかしい。

おそらく、660年の百済滅亡で亡命者が九州北部に押し寄せた。そこで、661年に余豊璋が伊勢王=蘇我倉山田石川麻呂帝=孝徳帝らを暗殺するクーデターを敢行。男女関係にあった皇后の間人皇女を斉明帝として即位させ都を難波から九州にもどした。また、皇太子には、まだ若い高市皇子をつけ、白村江に総司令官としてむかわせた。しかし、豊璋は倭軍をおきざりにして日本へ逃げ帰った。倭軍は大敗して高市は捕虜になってしまう。さらに666年ころ、斉明帝は不満分子による暗殺により崩御。豊璋は近江にのがれ「大友帝」を傀儡として立てたのだろう。

しかし、豊璋も668年ころ、飛鳥から東海地方をおさえていた大海人皇子に暗殺されたのだろう。そして、671年高市帝が帰還。大海人皇子と連合して、大友帝をうちとった。大海人皇子は長門から東を押さえ、おそらく初めての男性天皇「天武天皇」として即位。高市帝は九州で倭国帝についた(復帰した)のだろう。

その高市帝は唐風の皇帝独裁の律令制をめざしたが、藤原不比等により、696年、暗殺される。そして、より帝の権限を弱めた大宝律令になったのだろう。

なお、このころは母系社会が色濃かった。「男系の万世一系」なんて架空であり、それをあとからでっちあげるために系図はかなり無理をしているだろう。

ただ、元明帝あたりにしても、母系では蘇我王朝だったから国内的には問題なく即位したろう。

藤原不比等は父は百済王・余豊璋、母は間人皇女の斉明帝だったのではないか?だから「不比等」などという傲岸不遜な名前を名乗ったのだろう。



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by hiroseto2004 | 2020-07-13 19:29 | 歴史 | Trackback