ガザ南部でもイスラエル軍による破壊激化
2023年 11月 18日
以下、ジャーナリストの堀潤さんのX。イスラエル軍は北部から南部への退避を呼び掛けてきました。
しかし、南部でも、ご覧のように街はイスラエル軍により破壊されています。
結局、避難勧告など、国際的な非難を避けるための単なるアリバイ工作だったということです。
パレスチナ市民をいくら殺してもいい。とにかく、ハマス打倒。否。ハマス政権を
表面上崩壊させたとしても、結局、憎しみが新たなテロを生むだけだ。
1993年に成立した米国クリントン大統領の仲介とノルウェーの裏方的尽力でできた二国家並立のオスロ合意。
しかし、1995年のラビン首相暗殺で雲行きが怪しくなる。後から考えると、イスラエルのデモクラシーにとっての
ラビン首相暗殺は大正デモクラシーにとっての濱口雄幸総理暗殺事件に匹敵する凶事だった。
その後、特に2000年の労働党のバラク政権がアラファトと和平交渉のさなかのシャロンの聖地訪問強行。
その結果和平は暗礁に乗り上げ、そのことを背景にバラク政権が失墜し、シャロンが2001年春の前倒し
首相選挙でバラクを打倒する。
その頃以降、イスラエル右派はパレスチナ人の怒りを沸騰させるように沸騰させるように行動してきた。
そのシャロンも、2004年にはいったんガザからの撤退など一時期は軟化し、支持率を上げるものの2006年に
脳内出血で倒れて政界引退を余儀なくされてしまう(2014年死去)。
シャロン昏倒の隙をついてネタニヤフ被告人が政権を掌握。ガザへの侵攻や「天井のない監獄」建設などを
行ったことは報道されている通りである。
イスラエルがジグザグをたどりながらも、抜き差しならぬ戦争へと突入していくありさまは、まさに大正デモクラシー
だったのが満州事変、日中戦争へと突き進んでいった時期の大日本帝国とうり二つだ。
今のネタニヤフ被告人はまさにイスラエルの近衛文麿である。
イスラエルのデモクラシーはそうはいっても大正デモクラシーよりは堅牢だったから、ラビン首相
暗殺から今日の惨状に至るまで、28年かかっている。
対して大正デモクラシーは1930年の濱口雄幸首相暗殺事件から2年後には5.15事件で政党内閣が途絶え、
1936年の2.26事件、そして1938年の国家総動員法、1940年の大政翼賛会成立をもって消滅した
と言えるだろう。
by hiroseto2004
| 2023-11-18 10:48
| 国際情勢(パレスチナ情勢)
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