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庶民派知事で何があっても心配いらない広島を ヒロシマ庶民革命


by hiroseto2004
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決して鳴らない戦時中の「石の鐘」戦争がなくなるまで 長野の称名寺女性住職 建国記念の日集会で三次市の小武政教住職紹介

https://youtu.be/ANsx2mivsUw
2月11日は建国記念の日。午前中、筆者が所属する「広島県原水禁」も主催者の一つである「紀元節復活反対!平和・民主主義・人権を守る2・11ヒロシマ集会」に参加しました。
浄土真宗本願寺派西善寺住職の小武政教さんが「今、天皇制と天皇制を支えるエートス(習俗)ー『慰霊』と政治性」と題して講演されました。小武住職は現在、ミャンマー国軍に抗議する運動などにも取り組まれています。
その背景には、小武住職の祖父が戦前から戦中、教育勅語を実践するような法話を住職として地域や学校で
していたことへの痛恨の思いがあるそうです。例えば、亡くなった小学校の先生の慰霊の法話では、なんと、先生に報いるために
戦死した軍人のようになれ、と扇動していたのです。
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小武住職は、これまで、天皇とは、統治者を任命し続ける権威として存続し続けてきた、もし、実際に統治をしていたらとっくに
打倒されているだろうと、指摘しました。権威として無謬性を保障されてきたということです。

小武住職は、戦争について政治家が慰霊祭で済まそうとすることそのものも戦争の原因に言及されないという点、
被害者もそれ以上不幸の原因を追究しようとしなくなるという点で政治性があると語りました。

また天皇の戦争責任問題が、連合国の中の特にアメリカの意向で棚上げされ、上皇も昭和帝の戦争責任に
言及しないことで、日本社会全体に無責任体制が波及しているのではないか?またそれを許してしまう
『内なる天皇制』に我々もからめとられているのではないか?と指摘しました。

また、国家も人間に先行する自然の姿、差別的な社会制度も自然な姿であるということに正当化されてしまう落とし穴があり
これが天皇制を支える習俗の二つ目になっており、『和』の思想のもとに、『家族国家論』のもと、国家権力の正当化を
行ってしまうということも天皇制を支えている
と分析しました。
そして家族国家の考え方の元、天皇を家長、国民を家族=臣民とし、戦死=靖国神社への合祀で『安心』
という構図ができているとしました。
また、宗教的な支配者への恭順を現世の支配者に向けることにより従順な服従を作り出すわけです。
教育勅語はその典型例で、『友達は信じあい』なども『いいことも書いてある』とする松井一實広島市長
の一連の発言は大きな間違いで上記のような『ピラミッド構造』の中の話だと斬りました。

そして、最後に住職は講談風に、長野県信濃町の称名寺について語られました。
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称名寺は1942年、住職の佐々木五七子さんが13歳の時、金属供出のために鐘を取られ、その後はずっと石の金
をつるしているのです。








「石の鐘」を吊るし続けているお寺がある。長野県にある称名寺(信濃町)だ。


「金属回収令」により金属類が根こそぎ回収された戦時中。お寺の梵鐘(ぼんしょう)も例外ではなく、各地で供出されたという。その代わりに、石などの重量物を「代替梵鐘(ぼんしょう)」として吊るした例は各地であった。


称名寺にある「石の鐘」も、その1つだ。だが一般に、こうした代替梵鐘は、戦争の終わりと共に降ろされ、いわゆる「戦争遺産」として保存されることが多いらしい。


ではなぜ、ここ称名寺は戦後74年にあたる今なお、石を吊るし続けているのか。Jタウンネットが、その理由を探った。


「梵鐘記念 昭和十七年十月」


「梵鐘記念 昭和十七年十月」



石の鐘にはそんな刻銘がされている。1942年(昭和17年)の10月から77年近く吊るし続けられていることになる。Jタウンネット編集部は2019年2月21日、信州しなの町観光協会に問い合わせたところ、


「普通は降ろしてしまうので、やはり思いを持って吊るし続けているのだと思います」



と担当者。数年前まではイベントや終戦記念日の際に取り上げられ、話題になっていたが、最近は「忘れ去られているところもある」という。春には見事なしだれ桜が花を咲かせ、美しい写真を撮ることもできる。


称名寺の住職は佐々木五七子(いなこ)さん。


15年7月10日の信濃毎日新聞の報道によれば、鐘楼から鐘がなくなった1942年の10月1日は、佐々木さんが当時13歳だった頃だという。終戦後に住民から金属の鐘に戻すよう何度も頼まれたが、「戦争の悲惨さ、愚かさの証」として新調せずに残し続けたそうだ。


まもなく90歳を迎えることになる佐々木さん。過去に以下のような言葉を残している。


「いま世の中は平和ですか?平和ではありませんね。こうしているあいだにも、戦車や爆撃による殺し合いでなんの罪もない子どもや老人、赤ちゃんまでもが亡くなっています。そういう戦争がなくなったら、石の鐘は下げてとりかえましょう」(信州しなの町観光協会公式サイトより引用)



どうかこれからも元気に、石の鐘に託された思いを伝え続けてほしい。


by hiroseto2004 | 2024-02-11 20:21 | 反核・平和 | Trackback