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庶民派知事で何があっても心配いらない広島を ヒロシマ庶民革命


by hiroseto2004
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建国記念の日 私たちが学校で教わってきた“建国の物語”は、本当に正しいのか

建国記念の日 私たちが学校で教わってきた“建国の物語”は、本当に正しいのか https://www.youtube.com/live/OHrXIMYqn64?si=Q4nMlYozHZXCYK7b @YouTubeより  ■ 建国記念の日 街宣原稿

皆さん、こんにちは。
今日は「建国記念の日」です。
しかし、私たちが学校で教わってきた“建国の物語”は、本当に正しいのでしょうか。


2月11日は神武天皇の即位の日とされています。
けれど、古代日本には最初から一つの王朝しかなかったのか。
私は、そうは思いません。

むしろ、日本列島には 多元的な王朝が存在した。
その中心は九州にあった「倭国本朝」、九州王朝です。
神武とは、その九州王朝の皇族が、まるでメイフラワー号の移民のように東へ移動し、奈良盆地に入植した――
その記憶が神話化されたものではないか。

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■ 6世紀――九州王朝の帝・磐井と、継体の簒奪

「磐井の乱」と教わった出来事。
しかし、本当の“謀反人”は磐井ではなく、継体だった可能性が高い。

百済本紀には、
「倭国の天皇と皇太子が全員死亡した」
という異様な記事が残っている。

これは、九州王朝の本流が戦乱で弱り、
そこへ北陸で軍事力を蓄えていた継体が“援軍”を装って九州に入り、
大宰府で磐井帝を討った――
その痕跡ではないか。

『風土記』にある
「官軍にわかに動発」
という不可解な表現は、まさに“裏切り”の記録です。

継体は簒奪には成功したが、正統性が弱く、
だからこそ都に入れず、政治は安定しなかった。

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■ 継体の出自――九州王朝の分家が北陸で軍事国家化した

継体の先祖は、6代前に九州王朝の王族。
瀬戸内海を通り、安芸・吉備・播磨を経て若狭へ。
そして越前・越中へ入植した。

北陸は、

- 米の大生産地
- 鉄の産地
- 馬の産地

軍事国家が育つ条件がすべて揃っていた。
継体は“外様の豪族”ではなく、
九州王朝の別系統が北陸で軍事力を蓄えた姿だった。

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■ 蘇我王朝の時代――九州王朝本流の再統合

継体の混乱の後、政治を安定させたのは蘇我氏だった。
蘇我稲目=欽明帝。
蘇我氏は九州王朝の本流に近い王統で、
屯倉の開発、仏教受容、外交再編――国家形成が一気に進む。

蘇我馬子は、仏教を崇拝する九州王朝の帝として、
近畿を支配していた神道勢力・物部守屋大王を討った。
これは“宗教戦争”ではなく、
九州王朝と近畿王権の主導権争いだった。

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■ 聖徳太子とは誰だったのか

聖徳太子は、一人の人物ではなく、
蘇我善徳=入鹿帝、蘇我倉山田石川麻呂=孝徳帝、高市帝、長屋親王――
九州王朝・蘇我王朝の帝たちの功績をまとめて作られた“虚像”だった可能性がある。

彼らは藤原氏に滅ぼされ、その祟りを恐れた光明皇后が、
天然痘で藤原四兄弟が全滅した恐怖の中で、
法隆寺を大改修し、太子信仰を再構築した。

これは、怨霊封じの政治だった。

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■ 7世紀――天武と高市の「二重王権」

壬申の乱の実際の指揮官は誰だったのか。
記紀を丁寧に読むと、軍を動かし、兵站を整え、戦略を立てたのは 高市皇子です。

- 吉野脱出後の軍事行動
- 美濃・近江での兵力動員
- 敵軍の包囲・追撃
- 乱後の官制整備

これらの実務を担ったのは高市。
つまり、壬申の乱の勝利を実際に作ったのは 高市帝だった。

一方、天武は「真人」という宗教的称号を持ち、
九州王朝の宗教的権威を継ぐ“形式上の天皇”として近畿以東を統べた。

壬申の乱後の日本は、
宗教的ミカド=天武
実務皇帝=高市
行政官僚の長=持統
という三層構造の“二重王権”だった。

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■ 新益京は高市帝の都だった

日本書紀には、
高市皇子が百官を率いて新益京の建設を監督した
という記録がある。

これは単なる工事監督ではない。
新益京は 高市帝の王都 として構想された可能性が高い。

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■ 元明天皇は「高市王統を否定した」新王朝の初代だった

元明という諡号は、
“元”=はじまり、“明”=新しい光
つまり「新王朝の初代」を示す名前です。

元明は、文武の母というだけで即位したが、
正統性は極めて弱かった。

だからこそ、
高市帝の都・新益京を否定し、
わずか数年で 平城京へ“逃げるように”遷都 した。

文武天皇の急死も不自然です。
25歳での突然の崩御。
文武が生きていれば、高市系・天武系の正統が続いた。

文武の死は、
元明王統を成立させるための政治的転換点
だった可能性がある。

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■ 元明王統は“第三の王統”だった

元明→元正→聖武→孝謙(称徳)
この流れは、天武王統でも天智王統でもない、
元明王統という第三の王統だった。

そして孝謙崩御後、
奈良時代の天皇たちは 菩提寺から外される という異常な扱いを受ける。

これは、
「その王統は正統ではない」
という後世の政治判断の表れです。

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■ 古代日本は「王統交代の連続」だった

6世紀から8世紀にかけて、日本はこう動いた。

- 九州王朝の帝・磐井
- 北陸で軍事力を蓄えた継体の簒奪
- 蘇我王朝による再統合
- 天武と高市の二重王権
- 元明王統の成立と排除

これは、
勝者が歴史を書き換えた結果、断片化された“本当の建国史”です。

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■ 古代は説明責任がなかった。だからこそ、現代は必要だ

古代の帝たちは、
敗れれば記録を消され、
勝者が歴史を書いた。

説明責任など存在しない時代。
だからこそ、私たちは学ばなければならない。

歴史は、勝者の都合で書き換えられる。
だからこそ、現代の政治には説明責任が必要だ。

建国記念の日にあたり、私は訴えたい。

私たちは、
“都合の良い物語”ではなく、
“事実に向き合う政治”を取り戻さなければならない。

古代の闇を繰り返さないために。
市民の声が届く政治をつくるために。
説明責任を果たす日本を、共につくっていきましょう。

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by hiroseto2004 | 2026-02-11 00:10 | 歴史 | Trackback