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庶民派知事で何があっても心配いらない広島を ヒロシマ庶民革命


by hiroseto2004
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 私たちが学校で教わってきた“建国の物語”は、本当に正しいのか

  

■ 建国記念の日 街宣原稿(完全長編版)

皆さん、こんにちは。
今日は「建国記念の日」です。
しかし、私たちが学校で教わってきた“建国の物語”は、本当に正しいのでしょうか。

2月11日は神武天皇の即位の日とされています。
けれど、古代日本には最初から一つの王朝しかなかったのか。
私は、そうは思いません。

むしろ、日本列島には 多元的な王朝が存在した。
その中心は九州にあった「倭国本朝」、九州王朝です。
神武とは、その九州王朝の皇族が東へ移住した記憶が神話化されたものにすぎない。

そして、この九州王朝が大きく揺らいだのが 白村江の敗戦 でした。

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■ 白村江の敗戦――倭国の崩壊と“歴史の書き換え”の始まり

白村江の戦い。
倭国軍は唐・新羅の連合軍に惨敗し、壊滅した。

この敗戦は、単なる軍事的敗北ではない。
王統そのものが入れ替わる大事件だった。

敗戦の責任を押し付けられたのが、
九州王朝の正統な帝 斉明天皇 でした。

百済王族の 余豊璋(よほうしょう) は、
自らの保身のために斉明を“敗戦のA級戦犯”として唐に通報した。

その後の歴史操作は周到でした。

- 善光寺に「斉明は地獄に落ちた」という伝説
- 日本書紀での異様な悪評
- 斉明=皇極を“愚帝”として描く編集

これは、斉明を歴史から抹殺するための政治的プロパガンダだった。

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■ 斉明帝は生きていた――広島・伊予への逃亡

しかし、斉明は死んでいなかった。
命からがら戦場を離れ、
広島市安佐南区沼田町阿戸の「天皇原」 を経由して逃亡した。

この地名は、
「天皇が身を隠した原」という意味を持つ“生きた証拠”だ。

さらに斉明は瀬戸内海を渡り、
伊予国朝倉(愛媛県今治市) に落ち延びた。

ここは越智氏の本拠地。
越智王権は九州王朝と深い関係を持ち、
斉明を庇護した。

つまり、
斉明帝は“死んだことにされただけ”で、実際には伊予で余生を送った
という筋書きが浮かび上がる。

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■ 天智天皇の伝説は南九州に集中していた
ここで重要な事実があります。

天智天皇の伝承は、なぜか南九州に集中している。

宮崎・鹿児島・熊本南部――
南島文化と海洋ネットワークの中心地です。

これは、記紀が描く「近江の天智」とは全く異なる像です。

むしろ天智とは、
九州王朝倭国の南部を押さえた“海洋王”
だった可能性が高い。

南方との交流が盛んだった南九州。
海人族(あまべ)を束ねる海洋王――
それが“本物の天智”だった。

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■ 偽天智は「唐の使者との対面」で生まれた

白村江敗戦後、唐は倭国の実態を探るために使者を派遣した。

近江にいた余豊璋は、
唐の使者にこう問われたと考えられる。

> 「倭国の天子は誰か。」

余豊璋は窮地に陥った。

- 本物の天智(南九州の海洋王)は近江にはいない
- 斉明帝は逃亡中
- 倭国の王統は混乱している

そこで余豊璋は、
口から出任せで“天智”を名乗った。

つまり、

> 偽天智は、唐の使者との対面で生まれた“その場しのぎの偽装”だった。

この瞬間、
近江王朝=偽天智王朝
が誕生した。

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■ 偽天智の死は「雷に打たれた事故」だった

偽天智の最期は、記紀では「病死」とされるが、
実際には 巻き狩り中に雷に打たれて死亡 した。

あまりに間抜けすぎるため、
記紀は体裁を整えるために「病死」に書き換えた。

雷に打たれるという最期は、
天の怒り=正統性の欠如
を象徴するような死に方でもある。

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■ 大友皇子の暴走と、天武・高市の反撃

偽天智の死後、
天武は倭姫王の即位を進言したが、大友皇子は拒否。

大友は天武に刺客を送り、
天武は命からがら逃れ、
九州王朝正統の 高市帝 と連合する。

高市帝は白村江で捕虜となり唐で学び、
帰国したばかりの“本物の皇子”。

高市帝の軍事力と、天武の宗教的権威が結びつき、
大友帝を追い詰めていく。

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■ 大友帝の最後の味方――蘇我赤兄

大友帝が追い詰められていく中で、
最後まで彼に忠義を尽くしたのが 蘇我赤兄 だった。

赤兄は蘇我王朝の誇りを胸に、
大友帝を守って戦い続けた。

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■ 大友帝の最期――御腹川の伝説

大友帝は大津宮を捨て、
関東の百済系移民コミュニティ(千葉県君津市付近)へ逃亡。

しかし、そこでも逃げ場はなかった。

高市帝の軍勢が迫る中、
蘇我赤兄は乱戦の中で斃れた。

大友帝は、
「もはやこれまで」と腹を切り、
その血が流れた川は
御腹川(みはらがわ) と呼ばれるようになった。

こうして、
偽天智王朝は滅びた。

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■ その後――天武と高市の二重王権へ

大友帝の死により、
天武と高市帝の連合が勝利した。

- 宗教的権威者=天武
- 実務皇帝=高市帝

という 二重王権 が成立し、
その後の日本の政治構造を形づくっていく。

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■ 古代は説明責任がなかった。だからこそ、現代は必要だ

古代の帝たちは、
敗れれば記録を消され、
勝者が歴史を書いた。

説明責任など存在しない時代。
だからこそ、私たちは学ばなければならない。

歴史は、勝者の都合で書き換えられる。
だからこそ、現代の政治には説明責任が必要だ。

建国記念の日にあたり、私は訴えたい。

私たちは、
“都合の良い物語”ではなく、
“事実に向き合う政治”を取り戻さなければならない。

古代の闇を繰り返さないために。
市民の声が届く政治をつくるために。
説明責任を果たす日本を、共につくっていきましょう。

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by hiroseto2004 | 2026-02-11 15:23 | 歴史 | Trackback