昔の長崎市長銃撃事件と、今の“言論を封じる空気”について
2026年 03月 17日
皆さん、こんにちは。
今日は「昔の長崎市長銃撃事件と、今の“言論を封じる空気”について」お話しします。
長崎では、戦後の日本で決して忘れてはならない事件が二度起きました。
1990年、本島等市長が銃撃されました。議会で、事実に基づく見解を述べただけで、命を狙われたのです。
そして2007年、伊藤一長市長が市長選の最中に凶弾に倒れました。
市政の透明化を進め、暴力団の圧力を拒んだ結果でした。
暴力が政治を黙らせようとした、民主主義の危機そのものです。
時代は変わりました。銃弾は飛ばなくなりました。
しかし、暴力が消えたわけではありません。
今の日本には、別の形の暴力が広がっています。
それは、言論を封じる空気です。
国会で野党議員が事実を示して総理を追及する。
本来、それは民主主義の基本です。
ところが今は、事実であっても「攻撃するな」「批判するな」とネットで叩かれる。
一般の有権者が、事実を指摘した議員をボロカスに叩く。
権力者が弾圧する必要がないほど、社会が自発的に“言論統制”をしてしまう。
これは、物理的な暴力とは違う、見えない暴力です。
一方で、イランやベネズエラのような国では、人々が元気です。
不満があれば、何十万、何百万という規模でデモをし、権力に抗議する。
だから権力者は焦り、物理的な弾圧に走る。
皮肉ですが、弾圧が起きるのは、人々が声を上げる力を持っているからでもあります。
では、日本はどうでしょうか。
大規模デモは少ない。政治への参加意識も低い。
批判が“悪”とされ、事実を言っても炎上する。
市民が静かすぎる社会では、権力は弾圧する必要すらない。
暴力の形は変わっても、民主主義を脅かす力は今も存在しているのです。
本当に望ましいのは、人々が元気に声を上げ、そして当局が弾圧しない社会です。
批判が許され、事実を語る自由が守られる社会です。
本島市長や伊藤市長の悲劇を忘れず、そして現代の“見えない暴力”にも目を向ける。
そのことが、民主主義を守る第一歩だと私は思います。
ご清聴ありがとうございました。
by hiroseto2004
| 2026-03-17 22:23
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