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by hiroseto2004

カテゴリ:歴史( 144 )

戦争責任のがれのために倭から日本に改称?

倭が滅亡し、日本になったのを建国の日とすれば九州年号大化2年7月10日=696年8月13日だ。
倭の筑紫王朝の天子の高市天皇がヤマトの文武天皇と百済王子とも言われる藤原不比等に新益京(いわゆる藤原京)大極殿で暗殺されたのだ。
(日本書紀では蘇我入鹿暗殺ということにしているが「改新の詔」もそもそも奈良時代の改竄である。日本書紀では50年遡らせたのだろう)
こうした権力闘争に加え、白村江での戦争責任のがれのために倭を日本に改称した面もあるだろう。
倭の高市天皇を歴史から抹殺し(日本国の歴史に居たら戦争責任のがれにならないから困る。)、近畿日本が九州倭国を併合したというニュアンスで唐に報告したのだろう。そのとき、日本書紀を提出したのではないか?漢文だから向こうでもそのまま通用する。以降は日本は倭が課せられた賠償責任を免除された。その代わり、高市天皇(壬申の乱後はヤマトの天武大王=大海人皇子=漢皇子=蘇我善徳大王と皇極天皇の子との連立政権。日本書紀の天武とはヤマトの大海人と九州倭国の高市両方の事跡が合体している)時代に途絶えていた遣唐使を復活させ、唐に頭を下げることになる。

by hiroseto2004 | 2019-02-11 18:51 | 歴史 | Trackback
アイヌは渡来人に追われた側だーー建国記念日に当たって

以下は本社社主の個人的な歴史観によるもので所属団体や支持政党と関係ありません

今日2月11日は旧暦の神武天皇即位を新暦に当てはめたのが由来の「建国記念日」である。

しかし、当の神武天皇は自分が「天皇」と後に呼ばれるなんて思ってもおるまい。

そもそも、神武天皇自体は、結局、九州からヤマトに「カチコミ」を行った複数の政治勢力を象徴したものとも思われる。

 朝鮮や(中国も)から戦乱を避けて避難してきた人で九州王朝倭国の人口圧が高まるタイミングが何度かあり、その都度、瀬戸内海を東へ「カチコミ」に行ったのだろう。

その「カチコミ」の最後は百済王子とも薩摩出身とも言われる天智天皇=中大兄皇子という感じか。もとからいた日本人は東へおわれ、アイヌとして残っているということだろう。



by hiroseto2004 | 2019-02-11 18:41 | 歴史 | Trackback
アイヌは渡来人に追われた側だーー建国記念日に当たって

「大陸反攻」派と「東征」派のせめぎ合いでもあった倭・日本の古代史

倭~日本国の歴史は「大陸反攻」派と「東征」派のせめぎあいでもあったと思う。

古代は九州北部を中心におく筑紫王朝=日本を対外的に代表する王朝=内部で、「かつての故郷」である「大陸を攻めたい」優先論と、「東へ領土拡大」優先論と両方あったろう。

663年、白村江で倭は天皇の筑紫君サチヤマ=高市皇子が唐軍の捕虜になり、大打撃を受けた。

天皇の代わりに政務を執った天智天皇以降は東へ領土拡大をする方向に集中したのではないか?

それまでは路線闘争があったろう。

恐らく副首都の難波を足掛かりに東方侵略を重視する孝徳天皇(伊勢王という人物ではないかという説もある。)と朝鮮奪還=大陸反攻を強硬にめざす姉の斉明天皇(百済王妃だった時期もあるとの説もある)との争いがあったと思う。そして、斉明天皇が孝徳天皇を暗殺し皇位を奪う。

しかし、斉明天皇が崩御すると後の天智天皇は朝鮮出兵から引き上げ、サチヤマ=高市天皇のみを白村江に突っ込ませたのではないか?そして、自分のライバルを消した、ということではないのか?



by hiroseto2004 | 2019-02-11 18:36 | 歴史 | Trackback

アイヌは渡来人に追われた側だ

いわゆるネトウヨの方々が「アイヌは朝鮮人」と言っているそうだ。
ビックリだ。
むしろアイヌは縄文人(の一部)であったのだろう。

朝鮮からやって来た弥生人、あるいはその後も何度も「東征」してきた渡来人に由来する九州系勢力、一時的だが(高句麗経由か?)やって来た騎馬民族の「天皇」も含めて、縄文人を時に混血しながらも、東へ北へ、とおい立てた。

日本の建国の歴史はそういうことだ。「征夷大将軍」とは元々はそういうことだ。

そういう国の成り立ちを歴代将軍も継承していた。
アイヌは北海道やいわゆる北方領土、千島に追い込められた。
百済出身の桓武王朝の征夷大将軍・坂上田村麻呂に討たれたアイヌの人が現代の日韓関係悪化を見たらどう思うか?
「韓国人もヤマト民族も同じ朝鮮人同士、仲良くしたら?」
と言われるかもしれない。
「北方領土?俺たちに返せよ」
と言われるかもしれない。


by hiroseto2004 | 2019-02-11 18:31 | 歴史 | Trackback(2)
イラン・イスラム革命成功の日

2月11日は日本の「建国記念日」(根拠は実は「神武天皇即位」という不明確なもの)だが、「イラン革命成功」の日ということは、もちろん、ハッキリしている。
1979年のこの日、パーレビー皇帝が任命したバフティヤール首相が逮捕され、帝政は崩壊したのだ。
当時は革命と言えばフランス革命やアメリカ独立革命のような「市民革命」か、ロシア革命みたいな「社会主義革命」しか、人々の頭にはなかったから、イラン・イスラム革命は世界に衝撃を与えた。
アメリカからもソビエトからも目の敵にされたイランだが、いまや、極めて存在感のある国になっている。アメリカは躍起になってイランを押さえ込もうとするが、アメリカのたくらみはいつも裏目に出ている。
科学技術面でも、結構凄いし、しかも、理系に進む学生は男女半々と、この点では日本よりもむしろ進歩的である(学力で自動的に進路振り分けする制度のせいもあるが)。


by hiroseto2004 | 2019-02-07 18:27 | 歴史 | Trackback
今年はイラン革命40周年です。



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by hiroseto2004 | 2019-02-04 00:00 | 歴史 | Trackback
昨日2月1日は、ホメイニ師帰国40年でした。



by hiroseto2004 | 2019-02-02 06:16 | 歴史 | Trackback

今年はイラン革命40周年

今年はイラン革命40周年ですね。

それは、イラン暦1357年バフマン月3日、西暦1979年1月23日の出来事でした。

イラン・イスラム革命の創始者ホメイニー師の、フランスからのイラン帰国が決定的になったことを受け、「ホメイニー師歓迎委員会」が結成されました。

この委員会は5万人の会員を有し、各革命団体や政党の人々で結成された、最も包括的な委員会であり、その主な任務は亡命していたホメイニー師の生命を守ること、歓迎式の秩序や治安を確立するなど、歓迎式典の準備を整えることでした。

この歓迎委員会は、適切な準備を整えることにより、テヘランやイランの各都市からやってきた、およそ500万人の歓迎の群集を受け入れ、統制する責務を見事に果たし、イランイスラム革命の勝利の前後において、革命の継続に向けた諸機関の中核をなすものでした。

さらにこの日、テヘラン州南方にある聖地ゴムからは、軍関係者や警察隊が退去し、人々により制圧されました。





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by hiroseto2004 | 2019-01-23 21:56 | 歴史 | Trackback
日本書紀を改ざん・捏造した藤原不比等の総括を戦後すぐしておくべきだった
いわゆる皇国史観は第二次世界大戦敗北で破棄されたはずだった。しかし、結局のところ、藤原不比等により改ざん・捏造された「日本書紀」を民主化されたはずの日本はそのまま事実として受け止めた状態が続いた。古事記が数ヵ月で完成したのに、日本書紀は二十年以上かかっている。その間、藤原不比等政権は、政権に都合が悪い在野の歴史資料をすべて焼き捨てさせるという言論弾圧を行っている。
こうしたことを戦後、きちんと総括をしておくべきだった。政権による文書のデータの廃棄や捏造、改ざんが相次ぐ今、その事を痛感する。

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by hiroseto2004 | 2019-01-20 19:24 | 歴史 | Trackback
蘇我氏の功績を見直す記事。「脱・日本書紀史観」への動きとして注目したい。
バランス外交で乗りきった蘇我王朝(天智天皇にたおされるまでは王家だったと思う)。
無謀な戦争に踏み出した斉明・天智天皇母子。
こんな視点で歴史を見直すのも大事ですね。




by hiroseto2004 | 2019-01-07 07:03 | 歴史 | Trackback